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忘備録

考えたことを書いて忘れる用の何か。

ご多分に日本語がおかしいのは置いておくとして

げんしけん 涼宮ハルヒの憂鬱

原作付きのモノを一度別なメディアミックスでつくり直す時っていのはどんなに元に忠実に再現して提示しようと思っても何らかのズレというものが入ってしまう。

そんな時に監督らや脚本家は自分なりに噛み砕いてシナリオを再構成するんだけれども、そんなのが近年だと原作を忠実に再現することに注目が置かれる所なのか多少のズレも起こさないように作ってる場合が多いのだと思う。



そんな時に大幅な変更が許されるが原作者本人が話を再構成するときてあって、そこに入ってくる話の筋が元の作品のどこから途切れてどこにつながって戻っていくのかで新しく読み方が変わってくる。



個人的にはこういうことを意識したのは涼宮ハルヒの憂鬱の一期「サムデイインザレイン」と、げんしけん二期の3話を観たとき辺りだった。



前者は消失の直前の物型として、直接的な描写としては少ないが長門がどんどん行動的になっている様子を描いている。後者は田中と大野の関係を出だしの付き合っているという状況をまだ告白をしていない段階にとひっくり返している所から始まって、一話でほぼ同じ状態にまで戻している。







今回たまたま見返してみたとき、やっぱり持っているテイストが崩されてないで作品の世界観が変わらないオリジナルストーリーが出来てるのは原作者が直接脚本を担当をしている事の方が多い気がする。



自分としても元の作品を観たことのある場合はこういう違いのあるという知識を持っていたという前提で進んでいくオリジナルストーリーは、原作者がメインの話を再提示してくれる数少ない機会であるし、そこから読み込める世界観は一作品の情報量としてはもの凄くあるんじゃないかと思ってたりします。